ぼっちの炉

誰に吐き出せるわけでもない焚べてしまいたいあれこれ

友達が欲しいと思っていたけど違うかもしれない

 私に友達はいない。この人は友達だと思える人ができたことがない。いっとき親しくしていた人がいた、ような気がする。昔のことはよく覚えていない。

 世の中の人間のほとんどには誰かしら友達というのがいて電話とかSNSでやり取りをしたり休日にファミレスとかカフェとかに集まって話したり、しめし合わせて旅行に行ったりするんだろう、多分。

 憧れがなかったわけではない。話のわかる人間というものに会ってみたかった。けれど話がわかることがわかるまでには近づけないだろう。もしそういう人間に会えて親しくなったとしても無償で交流する気にはならなかっただろう。お金をくれないと話したくないの逆でお金をあげないと安心して話してられないのだ。

 対価が発生する場面でしか安心して話せない。お金を払って私の話を聞いてもらっている、私は対価を払ってこの時間を買っている。そういう安心がないと相手を拘束している罪悪感がひどくて一刻も早く逃げたいと思うだろう。

 あるいはお互いに利益があることが保障されている状態。ペアのチケット、宿泊先、外食、何らかの目的。そういうものが一致していてお互いの利益のために行動しているとかじゃないと無理だ。

 そうじゃないところにいると頑張って接待するか、そもそも会話をしないかどちらかになる。どちらになってもその場から早く逃げたいと思うだけだ。
 思えばそういう状態で会話を楽しんだことは一度もなかった。会話を楽しむという経験をそもそもしたことがない。

 ちょっと水商売が浮かんだが無理だ。アルコールがまずだめだし、知らない人間の顔に興味ない。馴れ馴れしくされるのも嫌だ。行ったことはないがコンパニオン付き居酒屋みたいなものだろうと思っている。

 いまだに友達に対する憧れが消えないが、私が友達を欲しがる理由は結局、何かに使えるかもしれないとか、便利かもしれないとか、そんなふうに考えるからなのだろう。ひどいことだ。
 昔、好きな人のためなら頑張れると言った人に、それは便利だねと返した記憶がある。本気でそう思っていたし今もそう思う。けれど、あれは失礼なことで、言われた人間は傷ついたかもしれないと、もう確かめることもできないのに考えることがある。 
 
 友達でも恋人でもなんでも、おそらく好きだから関係を継続しているのだろう。そのためになんらかのコストを払っているのだろう。
 
 少し考えてみた。私が誰かを好きになったら、正直それを考えるだけでもう気持ち悪い。モノなら好きだと思っても平気なのに人間となるとダメだ。関わりたくない。絶対に関わらない範囲で好きな人間はいる。要するにファンだ。ファンとして好きに生きて幸せでいてくれれば嬉しいし、犯罪を犯したり亡くなってしまえば悲しい。当然相手は私のことなど一つも知らない。それがいい。
 

 それか世間にとって友達というのは好きとか嫌いとかではなく世の中をなんとか生きていくために似たような属性の人間が寄り合いのように集まっているだけで、打算とか利害とか自己顕示欲とか暇な時間を埋めるために、あるいは社会の中でのポジションどりを確認するために集まっているだけなのかもしれない。
 そんなのめんどくさい。間違いなくそんな場所にいられない。興味ない。

 「コンビニ人間」という小説で、主人公が周りの人間の普通に合わせようとするけれど、主人公の周りの方がよほど有害だよなと思った。もし私があの世界にいたら、私にとって有害になるのは主人公より主人公の周りの人間たちだろう。
 
 たぶん、私には友達という関係が向いていないのだ。
いつもそう結論づけて、それでも思い出したように、「猫飼いたい」みたいな軽さで、「友達欲しい」と思うのだろう。